なぜ「生もと」仕込みを頑なに行うのか。
もと擦り作業を簡略化した「山廃」仕込みを行う蔵も多い。
「もと擦り」という作業に一体全体どうゆう価値があるというのだろう。
「生もと」仕込み
そこで行われる「もと擦り」
先人が到達した酒造りの境地は、現代人がいくら考えても答えは見つからないようです。
でも、「もと擦り」に辿り着いた訳ですからね。
意味がない訳がないと思います。
もしかすると、江戸時代の杜氏さんは文字さえ書くのもおぼつかない位だったかもしれないのです。
そうゆう職人集団の方々が、試行錯誤の上に辿りついた境地としての作業なのです。
もう、ほんとにすごいとしか言いようがありません。
別に、山廃をけなしている訳ではありません。
でも、本当は、別物じゃないのかなあ。
まあ、これ以上、造り手でもない私が書く事ではありませんのでこの辺で止しますが、自然に醸すというこの「生もと仕込み」は、大したもんだなあと思います。
それが、酒質として活かされた美味しいお酒が市場に出回るといいですね。
別に、現代の普通の仕込み方に対してダメだししているのではありません。
しかし、元々在った伝統の造り方(生もと仕込み)から始まって、もと擦り作業を簡略化した「山廃仕込み」があり、そして今の造り方になっているのです。
元々在ったといいますか、先人が辿りついた境地といいますか、それが無かったら、カタチを変えていく事さえできないのですから。
しかしですよ、本来の酒造りは「生もと」だからと言って、現代においては安易に取り組めるというものではないのでしょう。
やることになれば、ある種の覚悟がいる事は想像に難くありません。
農薬も無い時代の米。
酵母も添加するということの無かった時代。
その上で、自然な造りとして完成の域に達したであろう「生もと仕込み」
こうゆう、日本人としてのご先祖さまがおられたから、今の清酒があるのだと思います。
だって、そこまで到達していなければ、「どぶろく」が日本のお酒だった可能性もあるのですから。
あれ、書いていたら、話がこんな方向にきていました。